筒井順慶と松永久秀の間で続いた13年間の戦いは、1561年から1574年までの一連の抗争を指します。この期間、筒井順慶と松永久秀は大和国を巡って激しい争いを繰り広げました。
- 開始時期:
抗争は1561年(永禄4年)に始まりました。この年、松永久秀が筒井氏の本拠である筒井城を攻め落とし、順慶は一時的に城を失いました - 主な戦い:
- 筒井城争奪戦(1566年)
- 東大寺大仏殿の戦い(1567年):
- - 終結:
1574年(天正2年)に松永久秀が織田信長に降伏し、抗争は終結しました
この13年間の抗争は、大和国の覇権を巡る激しい戦いであり、筒井順慶にとっても重要な時期でした。彼はこの期間を通じて、松永久秀との戦いを繰り返しながら、戦国大名としての地位を確立していきました。
筒井順慶の戦歴 年代順
🔥 筒井城争奪戦(1566年)
- 松永久秀との争いで、筒井順慶は筒井城を奪還するために戦いました。この戦いで松永軍に対抗し、筒井城を取り戻しました
🔥 東大寺大仏殿の戦い(1567年)
- 松永久秀と三好三人衆の対立において、筒井順慶は三好三人衆側として参戦しましたが、松永久秀の夜襲により敗北し、東大寺の大仏殿が焼失しました
🔥 辰市城の戦い(1570年)
- 筒井順慶が松永久秀に対抗するために築いた辰市城での戦い。この戦いで順慶は勝利し、松永軍を撃退しました。これにより、織田信長の支援を受けるきっかけとなりました
🔥 信貴山城の戦い(1577年)
- 松永久秀は信長に対して反旗を翻し、信貴山城に籠城しました。筒井順慶はこの戦いで織田軍の一員として参戦し、信貴山城攻めの先鋒を務めました。この戦いで松永久秀は敗れ、信貴山城は陥落しました
🔥 洞ヶ峠の戦い(1582年)
- 本能寺の変後、明智光秀と羽柴秀吉の対立において、筒井順慶は洞ヶ峠で日和見を決め込み、どちらにも加担しませんでした。この行動が「洞ヶ峠を決め込む」という故事成語の由来となっています
🔥 山崎の戦い(1582年)
- 織田信長の死後、明智光秀と羽柴秀吉の間で起こった戦い。順慶は最終的に秀吉側に付きましたが、戦場には遅参しました
🔥 小牧・長久手の戦い(1584年)
- 筒井順慶は羽柴秀吉の指揮下で織田信雄との戦いに参加しましたが、体調を崩して戦線を離脱しました
これらの戦いを通じて、筒井順慶は戦国時代の大和国において重要な役割を果たしました。
彼の慎重な判断と戦略的な行動は、戦国武将としての彼の評価を高める要因となりました。
